(1)疑問
「オーシャンズ」を見た。
海ってなに? という少年の問いからそれは始まる。
感動的な美しさと神秘さを込めた風景、生物の生態。そこから生まれるいろいろの決定的瞬間を良くとらえてはいた。 「スッゲー!」と言わざるを得ない海の生物たちの生き様は面白い。
どこの世界の生き物であれ、彼らは弱いものを襲って食料とし、そして生き延びる。 しかしまた、その彼らの前にはさらに強い動物が現れ、その食料となってしまう。 殺し、殺されて、その個体自身は、永遠の繁栄を許されることはない。 この食物連鎖という絶対的な運命のなかで、それぞれの動物は狭く、小さく、そして短い命をエンジョイしているということか? それで世界はバランスが保たれているのだろう。
しかしどこか腑に落ちない気持ちが残る。それは、海の生物を殺害する「人間の悪行」についてである。 この海に、外部の人間が入り込み、思いっきりの欲望によってバランスを壊しているという。
(2)思いあがり?
では、海を見つめている我々、人間とは一体なんなんだ?
もちろん、人間は地球の表層・陸の生物ではあるが、海にも深く、空にも高く活躍し、空想し行動を組み立てることが出来る生物だ。
そして、生命を人生としてとらえ、楽しんだり、悲しんだり、悩んだりしてしている独特の生物でもある・・・・かもしれない。しかし、我々もまた食物連鎖の中の生物だ。
宇宙の神秘ははかりしれない未知の法則性に従って流転・推移する。 その中の微少な一つに過ぎない地球という星の表面で、いろいろの生命体がこれまたそれぞれの運命を背負って流転・推移している。 人間はその一つに過ぎない・・・。
地球の表面(海も含む)の歴史:自然史では宇宙の大きな変動でその体系が崩されない限り、食物連鎖とそのバランスの中で生きている。
肉食獣の王者ライオンですら腹を空かせて「猟」をはじめる。 だが食が満たされている時、けっしてムダな殺戮は行わない。 その自然さが動物を絶滅に導かないし、草食動物をも含めて共生の繁栄をもたらしている。
人間の猟もかってはそうであった。マタギは猟に出かけるときには必ず恵みをもたらす熊への感謝お祈りをして出かけ、かつ必要分の肉以上の猟はしない。まさに宮沢賢治の世界である。
「熊。おれはてまへを憎くて殺したのでねえんだぞ。おれも商売ならてめへも射(う)たれなけぁならねえ。ほかの罪のねえ仕事していんだが畑はなし木はお上のものにきまったし里へ出ても誰(たれ)も相手にしねえ。仕方なしに猟師なんぞしるんだ。てめへも熊に生れたが因果ならおれもこんな商売が因果だ。やい。この次には熊なんぞに生れなよ」(なめとこ山の熊/宮沢賢治)
しかし、科学技術の発達は人間の根性も変えてしまった。 それは「自然」をも支配できるという思い上がりである。 しかし、その思い上がりも自然の法則性のもたらしたものとすれば自然という神は「人類史」末期の症状を準備しているとも言えるのだが・・・。
人間はその強さをほこり、世界は自分のためにあるという錯覚を持ち始めた。 それが企業競争、企業利益を全てに優先させることでもたらした「乱獲」である。
(3)イルカの過去
今から40年以上前の頃、沖縄はアメリカの占領下にあった。だから沖縄旅行は外国旅行であり、パスポートが必要であったし、車は右側通行であった。 その沖縄に滞在していたある日、旅館のおばさんがいきなり「海岸に行ってみなさい!」と、部屋に飛び込んできた。 なんだ?なんだ?とあわてて海岸に行ったら、なんとイルカの大群が湾内に入っていたのである。
漁師たちはドタドタと漁船、ボートに飛び乗って海に出る。その数は数十隻にもなった、手には原始的な銛を持ちイルカを狙う。船がない者は銛だけを持って海に飛び込む。 イルカに銛が刺さると小さな船は引っ張られ漁師が海中に引きずり込まれる。 まさにこの死闘が湾内の至る所で繰り広げられた。・・・・・
やがて湾内は「真っ赤」と言っても良い血の海に変わった。写真は当時ゲットした記念ポストカードの写真だが、このカードそのものに海の色は血の海となっていった。沖合にみえる青海原からの色変化である。
湾内に追い込まれたイルカの集団は、殺され捕らえられ次々と海岸に並べられていく。・・・・ その時の新聞によると百数十頭以上が捕獲されたらしい。(写真は当時の新聞切り抜き)
漕ぎ出した船に乗れない人々も、それぞれ銛を持って海に入って待ち構える。/以下は旅行時の写真
イルカは猟師たちによってさばかれ、解体される。おそらくはそれぞれの部位に切り分けられ、それぞれの利用に供されるのであろう・・・・。 かわいそうだが、この地方の人々の生活にとって彼らは必要だったのだ。
漁師たちのたくましい戦いの姿に感動し、敗者イルカたちに哀れみと感謝を感じる。しかしまた解体作業の中で、どこかにそのむごたらしさや矛盾をも感じ、そして人々の生活があった。
・・・・しかし、はじめて見聞したこのイルカ捕獲と解体ショーのなかで、腹を切り裂かれた出てきた小さな子供イルカの死んだ姿が忘れられない。 そして、おそらく誰もが「かわいそう」と思ったに違いない・・・。
それから数十年経った今、多くのところでこのような捕獲はなくなった(完全ではないが・・・)し、今ではイルカウオッチングやコミュニケーションが盛んだ。イルカへの愛し方も変わっていき、保護活動も盛んになった。
しかし、過去となりつつあるこの時代の歴史はなんら非人間的ではない。この時代の必然性であり、人々が生きていく生活の一環であっただろう。生活と密着していたこの時代の、この場合は、「乱獲」とは言えない。
つづき --------------